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  最近はほとんど更新していなかったこのブログだけど,ここで一度完全に更新を終了しようと思う.

 これから,いろいろと大変なことに向き合っていかなければいけない.

 何が本当に大切なことか,今一度じっくり考えてみよう.


 最後に投稿してからずいぶん時間が空いてしまった.

 振り返ってみると周囲ではずいぶん色々なことがあったような気がするけれど,俺自身にはあまり変化や成長を見出せなかったように思う.

 たぶんそれが理由で,ブログを更新しようというような気持ちが沸いてこなかったんだろう.俺はわりとこのブログには研究のことに対する悶々とした気持ちを隠さず綴ってきたけれど,今それをすると,現在のことや将来のことに対する不安が一度に噴出してしまいそうな気がしていた.

 でも先日,昨年12月からまとめ始めていた研究がようやく論文の形まとまって,あとは(結構なお金を払って)ネイティブチェックをかけて投稿するだけになった.不思議なことに,そうした成果らしい成果が上がってくると,「俺,いままで何やってきたんだろう」という鬱な気持ちを抱えていた最近についても,「まあまあ頑張ってたんちゃうかな」という気が多少はしてくるのは,非常にゲンキンなものである.

 不安はまだまだ消えることはないだろうけど,まあ,騙し騙しやっていこうと思う.


 今までは学割証を見せるだけですんなり買えた電車の切符ですが,先日は学生証の提示を求められました.

 しかも形式的なものではなく,けっこうしっかり学生証を確認されました.

 そろそろ,学生に見えなくなってきたということでしょうか…


 先日,「情熱大陸」という有名な番組で,生命科学者が取り上げられていた.体内時計の研究をしている人.

 この人は若き天才科学者的な人で,大学院在籍時にプロジェクトリーダーに抜擢されたり(普通はあり得ない),同業者の大御所からも''new star''であると称されるほどの存在で,おまけにイケメンでトークも上手いという,まあイケ好かない輩なんだけれども.研究者志望の学生に,「根拠のない自信を持つことだよ」とかアドバイスしちゃってるの.ウソつけ,おめぇの研究はそれ,どうせ確固たる科学的根拠に裏付けされてるから自信持ってるんだろが!ボケ!根拠もなく論文が通るか!

 まあそんな見苦しいアレは置いといて.俺がこの番組を通して「あ〜やっぱりこの人は研究者として優秀なんだろうな」と思ったのは,学会やその後の懇親会でほかの研究者とのコミュニケーションを積極的に取ること.しかもものっすごい楽しそうに研究の話をしてる.それはこの人だけに言えることではなくて,自分の参加してきた学会においても,やっぱり有能と称される人は他の研究者と楽しげに研究の話をしてる.

 まあそんなことは基本中の基本なんだろうけど,案外これが難しい!特に国際的な場においては,外人と英語で研究の話をするなんて,かなりビビっちゃうわけですよ.でもそういう「ビビリ」は程度の差こそあれ,きっと誰にもあるもので,なぜ学会に懇親会があるのかといったら,そういう「壁」を取っ払うためにあるわけだ.国際学会ではそういう懇親会のことを''Ice breaker''と言って,まさにこれは文字通り,みんなが仲良くなるための飲み会.「飲みニケーション」(死語!)は,何も日本だけの文化ではないわけですよね.

 で,まあ結局話をどこに持っていきたかったのかというと,うちの研究室(4月からは違うけど)にもいるわけですよ.コミュニケーションが苦手な人々が.彼らを非難するわけではなくて,もったいないな〜と思う.飲み会で調査の時の苦労話をしてみるとか,ゼミ前に同期とスライドの見せ合いっこをしてみるとか(俺はこれを「お互いの恥ずかしいアレを見せあう」と呼んでいる),そういうことで自分の研究が進んだり,思わぬチャンスが得られたりすると思う.もちろん逆に,厳しい意見をもらうこともあるだろう.

 より高みを目指すということは,変革をし続けるということだ.変革には必ず痛みを伴う.この痛みを恐れていてはいけないと思う.


 


 コップに半分残った水を見て,「もう半分しかない」と思う人と「まだ半分ある」と思う人とがいるという.

 俺は明らかに前者のようです.


 とんかつ おくだ(安くて旨い!超オススメ)で晩飯を食べながらニュースを見てたら,「コピペが社会問題にまでなってる」という話題だった.大学のレポートはおろか,国家の公文書まであらゆるものがコピペ.お前ら,ホント頭使わないとどんどんバカになるよ? というお話.

 そんな中,こんなカ○みたいなサイトを紹介していた.そしてそんなサイトを作った○スみたいな人も堂々とテレビ出てしゃべってた.「子供たちに有意義な夏休みを過ごしてもらいたい」とかカスみたいなこと言ってた(あ,言っちゃった).もうね,「見つけたぞ,世界の歪みを!」って感じですよ.「コピペがばれたときの反省文の書き方」とか言っちゃってるからね.そのアホ面をそれ以上テレビに映すな.

 まあ,あまりに呆れてしまったのでどこから突っ込んでいいのかわからないんだけども,箇条書きにしてみるなら…

・頭は使わないとどんどんバカになる.特に若いうちに使わないと以後成長しない.

・たかが大学のレポートや読書感想文でさえごまかしてなんとかしようとする人は,社会に出たらもっと重要で責任の伴うモノをごまかしてなんとかしようとするに決まってる.

・言わずもがなだけど,ゆとりは(このホームページの作者のような)アホ大人のせい.

・オリジナルを明確に記す「引用」と違い,コピペは盗作であり,仮に犯罪に当たらないとしても恥ずべき行為である.

・今日から9月であることにショックを隠せない.


 今年は山にも海にも行ったぜ!チョーサで!タンクトップの跡が体に焼きついたぜ!

 ここのところ毎日忙しく,日記も放置気味でしたが,俺は元気です.

 期限付きの課題の締め切り,要は夏休みの終わりが刻一刻と迫ってきて,毎晩震えて眠りにつきます.うちの研究室は毎日が夏休みのようなもので,その分「自由研究」はそれ相応のモノを提出しないと廊下に…いや,廊下じゃなくて,学活の時間に教室でクラスのみんなの前に立たされて,反省文の朗読みたいな,そんな感じに匹敵するトラウマものの記憶を植えつけられ,最悪の場合そのまま不登校みたいなことになりかねない.

 なので,みんな顔面蒼白で朝から晩まで,泊りがけでアサガオの観察日記みたいなそんなエブリデイなんですけど,せっかくの夏休みなんでね,「あーそびーましょ」みたいな声かけられたらね,「まあ夏の友は後で答え写せばいいか〜」ってなりますよね.


 そんなわけで,まあたまには飲みに行ったりしてた.特に最近は普段あまり接点のない人たちと接する機会が多かった.


 「京都大学の修士課程で,将来は研究職に就きたい」

 今更ながら,この言葉の威力は凄い.おおよそ,次に来る言葉は

 「住む世界が違う」

 俺はこの言葉に違和感を覚える.住む世界が違うのはまったく当たり前のことで,なぜそこを強調するのか.次に来るべき言葉は,「親はいっぱいお金出して大変だね〜」とか,「研究職って,論文書くのがシゴトなの?」とか,なんか他にもいっぱいあるやん!そんな「違う」とか言われたら,もう会話続かへんやろ!

 医者も教師も弁護士もサラリーマンも,みんなそれぞれ違う世界に生きてるはずだ.医者が「人の命を救うことが私の生きがいです」と言い,サラリーマンが「わが社の商品の使いやすさと環境への配慮をみなさんに知って欲しい」と言って,お互い『あ〜住む世界違うわ〜』で会話が終わったら,こんなに寂しい世の中はない.

 その人がどんなことに誇りを持っているのか,どんな目標を持って,どんな生き方をしようとしているのか,それを理解する.それこそ「相互理解」ではないかと思う.じゃあ「理解する」って何?と言われたら,俺にもよくわからない.興味は持てても,「理解する」のは相当難しいように思う.


 まあ,だから,「アフリカとかの貧しい国に行って世界の現状を知ると,人間一回り成長する」とか唐突に言われても,イマイチ説得力を感じないのだ.少なくとも俺を含めたフツーの若者程度のキャパシティーでは,結局のところ「住む世界が違う」という感想に収束してしまうか,思い切ってユニセフに入っちゃうかの,2つの選択肢しかないのではないか(そして後者に至る事はかなり稀だろう).

 一回り成長ってなんだよ?どうせ食べ残しをしなくなるとかそんなんじゃないの?俺は最初から食べ残し一切しません.隣人の事すらも理解しようとしないのに,アフリカの国々の価値観を理解して,しかも自分の中に取り入れることなんてホントにできるのか?


 あれ?夏休みの話題が気づいたらディープで卑屈で,話の流れもほとんど誰にもわからないような日記に…

 とりあえず,明日から数日だけ帰省します.ホントはアサガオの観察日記をつけないとヤバいんだけど…
 


 ゼミの4回生の態度がヤバイんですよ.

 まあ,そんな「最近の若いモンは」的な愚痴を言うような歳に俺もなったんだなぁと思うけども.そして「4回生」とひと括りにするのは,多くのマジメな4回生にとって失礼だとも思うけれど.それにしても何でゼミ発表担当者の2人が2人ともアレな感じなんだ!と,元「キレる10代」の俺は柄にもなくキレてしまった.だってゼミ係りである俺の立場がないやん…

 「マナー」だとか「生真面目さ」というものは,決してキレイ事や精神論ではない.人間関係を円滑に進め,自分の能力を正当あるいはそれ以上に相手に評価させるためのツールであるというコトに,いい加減に気づかなければいけない.逆に言えば,謙虚さのない人物ややるべき事をちゃんとやってこない人は,それだけで評価するに値しないというコトだ.

 まあ,今日はその事を目の当たりにして,肝に命じられただけで良しとしよう.


 今日半年振りに学食のバイトに入った.そこで驚くべきメニューを見た.「ハラールチキン」というもので,「イスラム教徒の方も安心して食べられます」と銘打ってある.

 つまりハラールチキンとは,きちんとお祈りをして殺した鶏肉を使って,豚肉をはじめとする他の食材との接触を避け,オリーブオイルと専用のオーブンプレートを使って作られたフライドチキンである.
 なるほど,異なる文化,異なる宗教観念を持つ人を理解し,その人たちにも安心して食べられるものを提供しようという姿勢は非常に素晴らしい.しかし,それを提供する側に回ってみると,事はそう単純でない気がしてくる.

 先ず第一に,「我々が普段食べているもの」に対する敬意の問題.ハラールチキンは生肉の段階から専用のバットに入れられ,専用の包丁,専用のまな板を使って調理され,専用のオーブンプレートに乗せて焼かれる.このときオーブンで他の食材を同時に調理することは禁止されている.さらに専用のバットに入れられ,専用のトングで盛り付けられる.そのトングで他の料理に触れることも一切禁止だ.
 これらの特別扱いは,明らかに,普段我々が食しているハンバーグやカラアゲや秋刀魚の塩焼きを「汚れたモノ」へと貶めている.もちろん食べる側はこうした光景を目にしないから特に気にはならないと思うが,正直俺はいい気分ではなかった.

 第二に,コンセンサスの不一致という問題.我々がこうした扱いでチキンを料理するのは,特別な意識や価値観を持っているからではなく,ただそのように支持されるからというだけだ.そして我々は普通に,トンカツと同じ油で調理されたカラアゲを食べる.
 例えば我々が全く異国の地を訪れたとして,その現地の人はゴキブリや土や,我々の常識からは考えられないものを食べる風習を持っていたとしよう.その現地の人たちが「これはあなたがた日本人のために特別に作ったスシです.ゴキブリは使ってないから大丈夫です.まあ,私たちは普通にゴキブリ食べるけど」といわれたら,コレ食べる気になりますか?俺なら,持参した日本食を食べるか,そうでなければ思い切ってゴキブリを食べる.

 まあ宗教的観念を一切持ち合わせない俺には,この手の議論は難しいトコロだけれど…

 とある人が「宗教とは自己の中で完結されるものであって,他者に強制するものではない」と言っていたのを思い出した.俺もその通りだと思う.おそらく俺の感じた違和感は,「ハラールチキンを提供する」という行為が,(非常に間接的な形ではあるが)「イスラムの価値観を強制された」と感じられたことに由来する.非常に過激な言い方になるが,イスラムの方たちがどんな崇高な理由で食を制限していても,俺の価値観に照らし合わせればそれは嗜好(もっと言えば好き嫌い)と何ら変わりはない.だからやはりそれにつき合わされるのはいい気分ではない.異文化理解はスバラシイ,と言うは簡単だが,それを実践するのは非常に難しいのだなと感じた.

 まあ,ハラールチキン,生協のメニューの中では群を抜いてオイシイんですけどね.


 人から見たらガラクタにしか見えないようなものがその人にとってはすごく大切なものだったりするのはよくある話で,同じように,ちょっとした事がすごく嬉しかったり,逆に取るに足らないような事にどうしようもなく腹が立ったりすることはやっぱりよくある話だ.

 まあ要するに俺はしょうもないことで意外とすぐにカチンと来るので,あんまり人に「しょうもないことでそんなに怒るなよ」とは言えないなと思う.それがしょうもないことかどうかは,他人が判断するものではないのだろう.